嘗て中山道・日光例幣使街道の分岐点として繁栄し、戦国時代の倉賀野城の興亡、参勤交代する武士の大名行列、諸国の商人、旅人の往来で賑わった宿場町です。
また、上利根川(烏川)水運の有力な倉賀野河岸として大名の廻米・塩・煙草・雑貨を積んで交易がおこなわれ、そこでは人々に交流も盛んに繰り広げられていたと言い伝えられています。
倉賀野河岸跡
文献によると倉賀野河岸は永禄四年(1561年)に倉賀野宿の住人十名が舟により運搬栄漁翁をはじめ、舟問屋を開設したとある。事実上、問屋がかまえられて運営をはじめたのは慶安年中(1648〜52年)であったというから江戸期に入ってからで、この頃になって舟利用の運搬が盛んになり、全盛期には76の業者があった。
米麦・たばこ・織物・木材などの産物を目的地に運び、帰り舟で干魚・油・茶・塩・砂糖などの荷を運んだ。当時は旅籠屋71軒、茶屋9軒、商家34軒、造り酒屋2軒があり倉賀野宿の賑やかさは大変なものであった。
明治17年(1884年)高崎ー上野間の鉄道の開通に伴い、これまで輸送の大動脈だった舟運は役割を終え、倉賀野河岸は急速にさびれ、今では面影を残すだけとなっている。
倉賀野城跡
倉賀野城といっても戦国時代の城だから、高崎城や前橋城のような江戸時代のものとはちがい、規模が大きいものではない。上州八家のひとつ倉賀野三河守は、天文15年(1546年)夏、武州川越の夜戦で戦死した。
宮原の庄に金井小源太秀景、須賀佐渡守らが名を連ねる倉賀野野党十六騎があり、倉賀野を守っていた。西上州はそのころ武田、上杉の合戦場だったが永禄二年(1559年)武田信玄が板鼻に陣取っていたとき、一党の総代として金井小源太が震源の陣に使し、倉賀野淡路守と改号された。
初めて倉賀野氏を称したのは児玉党の秩父三郎高俊だという。源平の時代のことである。
倉賀野城が天正18年(1590年)に落城するまで四百余年の命運だった。
神社など
古墳など
大鶴巻古墳
この古墳は、鳥川左岸の段丘上に築かれた全長123mの前方後円墳で、平坦地に土を二段盛り上げてつくられています。ただし、後円部の噴頂下5mのあたりで等高線の間隔がゆるやかになる部分が見られることから三段築成の可能性もあります。後円部の径が72m、高さ10.5mであるのに対し、前方部の長さ51m、前端幅54m、高さ6.5mと、後円部に比較して前方部の幅が狭く、未発達という特徴を持っています。墳丘のまわりには楯型の周堀をめぐらし、地割りにその痕跡が残るなどよく原形をとどめています。墳丘の表面には埴輪片や葺石として用いられた川原石が認められます。主体部は明らかにされていませんが、竪穴系の埋葬施設があったと考えられ、墳丘・周堀りの形状や採集された埴輪の特徴から四世紀末から五世紀初頭にかけてつくられたことが推測されます。